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[第3部・麗わしき舞姫たち]


神楽に登場する姫の舞いは
麗わしければ 麗わしいほど
妖しければ 妖しいほど
そして哀しければ 哀しいほどに
物語を味わい深いものにしてゆく

「大江山」の紅葉姫は、都で名をなす大家の姫であったが、
鬼に連れ去られて、今は同じ身の上の多くの姫たちと共に、
山奥の岩屋へ閉じ込められている。
毎夜誰かが酒宴の肴(さかな)となって、千切られ裂かれてゆく。
今宵は我が身かも知れない。
それでも、鬼の命ずるままに、血糊の付いた布を谷川で洗う。
姫の「心」はもう、すでにないであろう。
その舞姿はあまりにも哀しい。

「紅葉狩」の「姫達」は自らを退治に来た男たちに、
美しい化身となり色気を漂わせて酒宴に誘い込んでゆく。
道行は、鮮やかで艶やかな「女」がほとばしる。
観客も、維茂(これもち)の気分に変身してゆく。
鬼女達は自らの「化身」に酔い、維茂に恋したのではなかろうか。
ずっとこのまま、美しい姫でいたいと・・・・・。
本性を現わし、討たれていくわけだが、姫の舞に「心の葛藤」を見る思いがする。
平将門(たいらのまさかど)の娘、五月姫(さつきひめ)は、父将門が討たれると
その仇を討たんがため落ちのびて修行の道に入る。
そして妖術を身につけるやいなや、美しき滝夜叉姫(たきやしゃひめ) となって、怨敵に舞い寄りて行く。
怨念あふれるその姿は、悲しくも哀れである。

「姫」にまつわる話はつきない。

本性を現わして討ち取られるか、男に侍るか、
鬼や大蛇のえじきとなって、物語からさみしく消えてゆく。
しかし、姫が登場することで、どれほど神楽に華やかさと哀愁を与えることか。

鬼と神の戦いの前に据えられる姫の舞は重要な位置をしめていく、
舞のかくし味としての力さえ持っている。
単に、物語の一場面とされるのではなく、演目の真のクライマックスかもしれない。

神楽団の中に、素晴らしい姫の舞手がいるかどうかが問われることにもなる。


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